礼拝説教の要旨・2026年4月19日・ヨハネ20:19-23
“キリストは言う。聖霊を受けなさい。”
週の初めの日、弟子達はマグダラのマリアから主の復活を聞いたが信じず、その日の夕方、ユダヤ人を恐れて鍵をかけて部屋に閉じこもっていた。そこに現れた主を恐れたが、主が十字架の傷跡がある手と脇腹を見せると、彼らはやっと主の復活を信じて喜んだ。
「平安があなたがたにありますように。父がわたしを遣わされたように。わたしもあなたがたを遣わします」主は弟子達を宣教のために遣わそうとしていた。主は息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われた。創世記2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生き物となった」を元にしたみことばだ。人は聖霊を受ける前、霊的には死んでいるが、聖霊を受けることで霊的ないのちが与えられ、真の神が分かり、自分の罪を認め、罪からの救いを受けて福音を伝えられるようになる。
ここで2つの疑問が出て来る。1つ目は弟子達は以前からイエス様をメシアと信じて従っていたのにこの時やっと聖霊が与えられた。この時より前は主を信じていなかったのか?救われていなかったのか?2つ目はもう少し後の使徒2章の聖霊降臨との関係だ。主の復活の日と50日後と聖霊は2回与えられる必要があったのか?1つ目の疑問について、私達と違って時間の差はありながら主を信じる者には聖霊が与えられる原則は変わらない。弟子達は主を信じた印として、信じた後で主が息を吹きかける行為によって聖霊を受けたことが示されたとの説明がある。2つ目の疑問について、使徒2章の聖霊とヨハネ20章の聖霊では焦点が違う。使徒2章の聖霊降臨は聖霊の力によって宣教を進めることに焦点を当てている。
一方、ヨハネ20章は、罪の赦しに焦点がある。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」
罪の赦しは、神が御子イエスの血によって私達の罪を赦してくださることから始まる。神があなたの罪を赦してくださったからあなたも側にいる人の罪を赦しなさいと教えている。
でも、赦さなければ和解が出来なくて互いの間に罪が残る。神から罪の赦しを与えられた
私達は人の罪を赦すべきだが、赦す赦さないは私達に任されている。だから罪をそのまま残してしまう危険性を指摘して“だから赦しなさい”と勧めている。マタイ18章にその危険性を指摘し赦すことを勧めるたとえ話がある。1人の王が負債がある家来に厳しく返済を迫ったが、その家来がひれ伏して猶予を願うと、王は可哀そうに思い、彼を赦し、負債を免除した。これは神が御子の血によって私達の罪を赦したことを表す。しかし、その家来は自分に借りがある1人の仲間に借金の返済を迫り、猶予を願う彼を容赦しないで牢に放り込んだ。これは私達が人の罪をなかなか赦せないことを表す。王はそれを見て怒り、その家来を牢に放り込んだ。「あなたがたも自分の兄弟の罪を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさる」厳しい教えだが、人を赦さないなら私達も同様に厳しいさばきを受けるのではない。人を赦せない罪が残る私達でも神は見捨てないで救ってくださる。ただし人の罪をなかなか赦さないと、その人を苦しめ続け、自分も心の重荷を負い続ける。「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように」コロサイ3:13
