礼拝説教の要旨・2026年5月24日・ヨハネ6:1-15(荒平師)
“五千人の満腹”
5000人の給食は4つの福音書すべてにある記事だ。給食が行われたガリラヤ湖は琵琶湖の4分の1ほどの大きさ。季節は過越の祭りの間近い3~4月。ヨハネには3回の過越の記述がある。1回目は1章、3回目は十字架の時、この6章は2回目。イエス様が登った山は丘のような低いもの。給食のときマルコやルカは主が100人ずつ、あるいは50人ずつ座らせたと書いてあるが、ヨハネやマタイには書いてない。1つも無駄にならないように余ったパン切れを12かごに入れた。これは4つとも同じ。12はイスラエルの12部族を表すかもしれない。5000人の給食はイエス様がなさった奇跡の中で最も派手なみわざであり、そのみわざによって多くの人々が感激してイエス様を追っかけた。ヨハネでは、追っかけてきた人々に主イエスがいのちのパンのお話をしたことが書いてある。
ところで、ヨハネの5000人の給食には他の福音書にはないことが書いてある。それは弟子のピリポを試したことと、人々がイエス様を王としようとした時、それを避けて山に退いたことである。
イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人達に食べさせようか」と尋ねた。男だけで5000人、女や子供も数えたら20000人以上いたと考えられる。店もない辺鄙な所だ。もちろんお金もない。ピリポには全く不可能に思えたので「1人ひとりが少しずつ取るにしても、200デナリのパンでは足りません」と答えた。(1デナリは当時の1日分の労賃)次にアンデレが「ここに大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」と否定的なことを言った。主イエスと一緒にいながら不可能と思い込み、主の力に制限をかけていた。
けれども、主は「パンを買ってきなさい」と命じたのではなく「どこからパンを買おうか」と直面する課題を語っただけだ。これはチャレンジだったが、共にいてくださる主のみ声に耳を傾けるなら困難な時にも前向きになれるのではないか。主は愛する弟子達を試される。
私達も「さあ、私達はどうしようか」と一緒にいてくださる主のみ声を聞くなら、困難な時でも前向きになれるのではないか。それは、私達と同じ側に立ち、同じ問題に立ち向かう者の声だからである。主とともに歩む道はチャレンジに満ちているのである。
給食後、満腹になって喜び熱狂する人々は、自分達を満腹にしてくれたイエス様を強引に王にしようとしたが、主はそれを望まず、ただ1人で山に退かれた。マルコには弟子達がその熱狂に巻き込まれないように主が彼らを舟に乗せてその場から去らせたことも書いてある。人々が期待した王と、王の王である主イエスとは違う。お腹を満たし、病を癒してくれるイエス様を王にすれば、安心して暮らせるという思いで人々はイエス様を担ごうとしたが、イエス様は罪人に担がれるお方ではない。主はロバの子に乗り、弟子達の足を洗い、罪人のために十字架で殺され、罪の罰を代わりに受け、死んで葬られ、死者の中からよみがえられた王だ。主はむしろ罪人を担ぐために来られた。このことは罪に支配された者達には理解できない。弟子達さえ理解できなかった。
この時のイエス様の孤独の苦悩はどんなものだっただろうか。弟子達から離れ、1人で山に退かれた。その翌年の過越にイエス様は十字架に向かって行かれた。ところで、私達の行動や思いは、イエス様をただ1人山に退かせているようなことはないだろうか。ただお腹を満たすこと、望めば与えてくれることを期待する王様にしていないだろうか。この世の祝福を与えてくれるだけの王様にしていないだろうか。私達が主からいただいたものは、その場限りの満たしや一時の祝福ではない。私達が主からいただいたものは罪の滅びからの救いであり、永遠のいのちである。
今日はペンテコステだが、今一度、聖霊に満たしていただき、私達の心の真ん中にこのイエス様を、まことの王としてお迎えしよう。
