礼拝説教の要旨・2026年7月26日・使徒15:1-19
“すべての人々がイエスキリストを求めるために”
ユダヤ人とは生まれも育ちも違う異邦人信者が増えると、キリスト信仰と旧約聖書のユダヤ人の律法との関係が問題になってきた。パウロやバルナバはキリストを信じれば救われることだけを語り、律法遵守は強要しなかったが、ユダヤ主義者(割礼派)は“割礼を始めとするユダヤ人の律法を守らなければ救われない”と教えた。混乱が生じて統一見解が必要になり、エルサレム会議が行われた。律法遵守を主張する人達は聖書に対して真面目だった。たとえば、創世記17章の神の命令に従い、ユダヤ人は先祖代々、割礼を行い、ユダヤ人信者はキリストを信じる前から割礼を受けていた。安息日律法を忠実に守った。食事規定も厳守した。使徒10章でペテロは異邦人コルネリウスの家に行く前に食べ物の幻を見せられたが「私はまだ1度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と食事規定を厳守していた。それを守らない異邦人は汚れた人々と考え、付き合うことを避けていた。
だが、神のお導きによって使徒達は非常に革新的な判断をした。神のお導きとはペテロがコルネリオの家で福音を語り、異邦人達がキリストを信じて聖霊が与えられて回心したことだ。
今の私達には驚くべきことだが、当時の使徒達は、律法を持たない汚れた異邦人は救われないと考えていた。だが、ペテロがみことばを語ると、ペンテコステの時と同様、聖霊の賜物が与えられたことを見て異邦人も救われることを悟った。その後、エルサレムの使徒達に報告すると、彼らは初めペテロが異邦人達と一緒に食事をしたことを非難したが、彼が異邦人達にも聖霊が与えられたことを話すと沈黙し、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って神をほめたたえた。ペテロはその証しを元にして「そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私達の先祖達も私達も負いきれなかったくびきを、あの弟子達の首に掛けて、神を試みるのですか」と問いかけたが、だれも反論しなかった。ユダヤ人自身も本音では面倒な律法を遵守することに辟易していたのである。
次に主の兄弟のヤコブが旧約聖書の預言を上げた。その預言はイスラエルの回復とともに「わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ」と異邦人の救いも語っている。異邦人の救いは神のご計画だから「私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者達を悩ませてはいけません」と語ると、割礼を始めとするユダヤ人の律法を守らなければ救われないという教えは退けられ、私達の罪のために十字架にかかられ、死んでよみがえったキリストを信じるだけで救われることが霊的な真理だと認められた。ところで、この霊的な真理は、昔から現代に至るまで行いによって救われるという律法主義のチャレンジを受けて来た。ガラテヤの信者達に起こったことはユダヤ教の律法主義によるチャレンジだ。
ユダヤ教の力が衰えて、キリスト教が優勢になると、イスラム教によるチャレンジが起こり、現在も続いている。イスラムは律法主義的な宗教だからだ。キリスト信仰によって救われた私達にも律法主義的な性格が残るが「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じています」を注目。恵みとは神から与えられたもの。エペソ2:8「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。――それは神の賜物です」神の恵みを覚えよう。
