礼拝説教の要旨・2026年7月19日・ガラテヤ5:1-26
“恵みから決して落ちないキリスト信仰”
初代教会は初め信者はユダヤ人ばかりだったが、パウロやバルナバの伝道旅行で異邦人にも宣教がなされ、小アジアのガラテヤ人もキリストを信じて救われた。でも、パウロが去った後、ユダヤ主義者がやって来て“キリストは救いの入り口だが、キリストを信じるだけでは足りない、割礼を始めとするユダヤ人の律法を守らなければ救われない”と教えた。素朴なガラテヤ人信者は影響され、割礼を受け、律法を守ろうとする者達が現れた。そのことがパウロの耳に入り、非常に心配して手紙を書いた。行いによる救いを主張するユダヤ主義者は信仰による救いを否定する異端だから、パウロは何とかガラテヤの信者達を説得して信仰による救いの教えにとどめようとした。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですからあなたがたは堅く立って再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」キリストは、律法主義という奴隷のくびきから人間を解放して自由を得させるために来られた。それなのに再び奴隷のくびきを負うのは変なことだ。律法を行うことで義と認められようとすることはキリストをお払い箱にすることであり、キリストから離れれば恵みから落ちてしまう。そうさせようとするユダヤ主義者をパウロは厳しい言葉で非難した。
13節からは言うことがガラリと変わる。「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」愛をもって互いに仕え合うことは律法の目的であり、だれもが求めていることだ。その目的を達成するために御霊によって歩むことを教えた。私達の人生の現実は、肉の望むことと御霊の望むことの戦いだ。「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」という肉の望むことを抑え、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶことを求める。それはだれもが目指しているごく普通のことである。
けれども、少しばかり気をつけるべきことがある。それは御霊の実を、達成しなければならない律法にしてしまうことだ。だれでも自分のうちに目指すレベルを持っていてそのレベルを達成するよう努力する。そのレベルが目指す目標であるだけなら問題はないが、そのレベルを自分をさばく基準にし、達成できなければ、自分をさばいて赦すことができず“私は天国に行けない”と考えだすと問題だ。現代には、昔のユダヤ主義者はいないが、私達の心に別のユダヤ主義者がいて“キリストを信じるだけでは足りない、行いがなければ救われない”と思わせる。そう思ってしまうと、ガラテヤ人と同じように福音の真理から外れかかり律法主義に陥りつつある。だが、聖書は人は律法の行いではなくキリストを信じることによって救われると教えている。自分のレベルを達成していなくても、御霊の実はなく、立派なことはできなくても、キリスト信仰によって救われている。人々に福音を伝えるとき“どんなに罪深い人でもキリストの血によってその罪は赦されます。だから自分の罪を認めてキリストのもとに来てください”と語るのではないだろうか。“修行して良くなってから教会に来てください”などと決して言うことはないはずだ。
