礼拝説教の要旨・2026年7月12日・ヨハネ1:1-14
“共に生き、死んだイエスは、神だった”
古代教会ではイエスを神と信じ、イエスを礼拝していた。「父、子、聖霊」とイエスを父なる神と同列におくこと、ピリピ2章「キリストはーー神としてのあり方を捨てられないとは考えず」へブル1章「御子はーー神の本質の完全な現れ」これらはイエスを神と信じた証拠。最高法院で主が「今から後、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見る」と語ったことが、神への冒涜とされ死刑が決まった。神の右に着くことは自分を神と等しくすることだから。ヨハネ5章で病気の人を安息日に癒して非難されて語った「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いている」もヨハネ10章の「わたしと父は1つです」も冒涜とされた。結局、主は自分を神と等しくしたことで十字架にかけられた。でも、弟子達は死んでよみがえったキリストを神と呼んだ。トマスは「私の主、私の神よ」と告白した。古代教会はそれらを信じてキリストを神として礼拝した。
だが、4世紀に教会が公認され迫害が止んだ頃、キリストの神性について論争が起こった。アレキサンドリア教会の長老アレイオスがキリストの神性を否定し、司教アレクサンドロスは「いや、キリストは神だ」と反論。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」この「ことば」とは原典のギリシャ語だと「ロゴス」だ。「ロゴスは人となって、私たちの間に住まわれた」ロゴスとはキリストだが、アレイオスはロゴスは厳密には神ではない、神は天地を創造する前にロゴスを創造した、ロゴスは被造物だとしてキリストの神性を否定。ロゴスが神だと2人の神が存在し、神は唯一に反すると主張。一方、アレクサンドロスはロゴスは神であり、創造されたのではなく、父とともに永遠に存在する。だからキリスト者は昔から父とともにキリストを礼拝してきたと主張。けれども、もしアレイオスが正しいなら、これまで古代教会がしてきたことはすべて間違いとなる。全教会に論争が広がり、混乱が起こり、それが帝国に波及する可能性があった。
事態を重く見たコンスタンティヌス帝は公会議を呼びかけ、帝国内の司教達を一堂に集めてAD325ニカイヤ公会議が行われた。アレイオスの代わりにニコメディアのエウセビオスがアレイオスの見解を語ると、司教達から非難の声が上がった。議論が進み、三位一体の教理が明確になり、ニカイヤ信条が採択されたが、一件落着にならなかった。エウセビオスは皇帝の親戚という立場を利用して皇帝に近づき、政治力で三位一体のニカイア派の排除とアレイオス派の復権を画策。アレキサンドロスが召されアタナシウスが司教とニカイア派のリーダーを引き継いだが、何度も追放され、三位一体の教理が葬られる可能性があった。長い闘争の後、神の不思議な導きで最終的にニカイア派が勝利、AD381年のコンスタンティノポリス公会議で三位一体が正統な教理であると全教会は合意。ニカイヤ信条の「父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり」は論争の跡を偲ばせる。父は、私達を滅びから救うためにひとり子の神を人として十字架にかけた。これがひとり子としての栄光だ。その栄光によって恵みやまことは与えられる。でも、キリストが神でなく被造物だとしたら栄光はあるだろうか、恵みやまことはあるだろうか。
