礼拝説教の要旨・2026年10月18日・マルコ8:34-37
“全世界よりも大切ないのち”
イエス様に従うとはイエス様を信じることから始まる。主を信じれば主に従っている。主を信じるとは、自分の罪の身代わりとして主が十字架にかかって死んでよみがえられたことを信じることだ。それは主の死と復活だけでなく、私達も実際に十字架にかかるのではないが、私達の古い自分が死んでよみがえり新しい自分に生まれたと信じることだ。それがバプテスマの意味だ。主を信じることは難しくないが、“古い自分を捨てられない”と言い張ると、主を信じることはできない。それは世の楽しみをすべて捨て重荷を背負いながら主に従うことではない。神のみこころに明らかに反することでなければ、大いに生活や人生を楽しんでよい。熱心な人、ゆっくりの人、熱心ではない人など様々だが、優劣はない。主を信じる者はみな自分を捨て、自分の十字架を負い、主に従う者だ。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」「自分のいのちを救う」とは古い自分を捨てられず主を信じられないこと。「それを失い」とは古い自分ではなく新しい自分を失い、霊的ないのちを得られないこと。「わたしと福音のためにいのちを失う」とは古い自分を捨てること。「それを救うのです」とはキリストを信じて救われ新しい自分や霊的ないのちを得ることだ。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」一般的な意味では「全世界」は領土の征服、大金持ちになる、名声を得るなどの野望である。「自分のいのちを失ったら何の益があるか」とは野望を成し遂げても、最後は死で終わる。人生は空しい。だから今のうちに人生を考えろという問いかけ。「あなたは土のチリだから土のチリに帰る」「飲めよ、食べよ。どうせ明日は死ぬのだ」「同じ結末がすべての人に臨む」なども同じような問いかけだ。一方、私達キリスト者には一般的な意味とともにキリスト信仰に基づく意味がある。私達はこの「いのち」をキリストを信じて得られる新しい自分、霊的ないのちと考える。それがなく“古い自分”のままでは、死んだ後にやがて神のさばきが訪れて滅びてしまうことを深刻に受け止める。
「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか」一般的な意味では失ったいのちを取り戻すことはできず死んだら終わりだが、キリスト信仰に基づいた意味では「いのち」とは霊的いのちだから“買い戻す”ことに意味が出て来る。つまりキリストがご自身のいのちと引き換えに私達の霊的いのちを買い戻してくださり新しい自分になったことを私達は信じている。霊的いのちを買い戻していただいた私達には永遠のいのちの希望がある。マルコ8章は「人はいったい何を差し出すことができるのか」で終わり、尻切れトンボみたいで永遠のいのちについて語ってくれない。だが、そこからは私達の口で足りない所を語らなくてはならない。そのために私達は立てられている。主を信じることで私達は永遠のいのちという凄い財産が与えられている。しかも、その財産は他に人達に分け与えることができ、分け与えても全く減らない。その財産を与えて死を恐れる人達に希望を与えられる。そんな凄い財産が自分にあることを思い出せば、宣教の情熱が湧いてくる。
