礼拝説教の要旨・2026年10月4日・ルカ11:1-4

“イエス様が教えられた祈り”

私達の心が鈍いので極端な言い方だが、私達の信仰生活には被害者がいる。それは主の祈りだ。加害者は私達だ。主の祈りは短くても非常に深い内容があるのに私達は口では“大切だ”と言い、悪気はないが、ないがしろにする。では、どうすればいいか?弟子達はイエス様の祈りを見て自分達が知るバプテスマのヨハネの祈りやパリサイ人の祈りと違い、ずいぶん短いのに気づいた。ヨハネやパリサイ人の祈りは断食と共に行い、長い式文があり、普段の生活とは離れた所にある祈りだった。だが、イエス様は普段の生活で折あるごとに短い祈りをした。それで弟子の1人がその祈りに関心を持ち、「私達にも祈りを教えてください」と言った。それが主の祈りだ。祈るのに1分もかからない。もともと毎日祈るべきもの。週1回、礼拝の時だけでOKではない。だからもし平日には祈らないとしたら主の祈りを被害者にしてしまう。でも、普段の生活に組み込み、毎日祈れば、そうはならない。

主の祈りには信仰や信仰生活の大切なエッセンスがちりばめられているからその意味を考えながら祈るべきものだ。まず神のための祈りから始まる。「父よ、御名が聖なるものとされますように」「聖」とは“特別な”という意味。父なる神は他にはない特別なお方、唯一真の神。それが分からない多くの人々が分かるようになるために祈る。「御名があがめられますように」とは父なる神が聖なるものとされるから御名があがめられるということだ。

「御国が来ますように」御国とは神の国。この世の国は必ずしも正義と平和があるわけではないから、それらがある御国が来るように祈る。それは言い換えると、主の再臨を待ち望む祈りだ。初代の教会は“主がもうすぐ来られるような”信仰を持っていた。現代の私達は再臨はずいぶん先との思いがあるが、「御国が来ますーー」は再臨を待ち望む祈りだ。

以上のことが分からないで呪文のように唱えるだけでは主の祈りを被害者にしてしまう。

だが、その意味を考えながら祈れば、主の祈りを大切なパートナーとすることができる。

次に人間のための祈りである。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」毎日、肉の糧が与えられるのは当たり前と思わないで祈っていく。祈りによって感謝が生まれる。

「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」罪も負い目も同じこと。自分が人の罪を赦したから交換条件として自分の罪も赦されると考えてはならない。罪を赦すことは神のなさること。神が私達の罪を赦してくださるから神に赦された私達は互いに赦し合うのだ。マタイ18章の王様と家来のたとえ話はそれを教えている。王は1万タラントの負債がある家来を哀れんで赦したが、その家来は自分の仲間の借金を赦さなかった。王はそれを聞いて怒り、「私がお前をあわれんでやったように、お前も自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言い、彼を牢屋に入れた。それは神が私達の罪をキリストの血で赦してくださったから私達は互いに赦し合うべきだと教えている。

「私たちを試みにあわせないでください」“試練など簡単に乗り越えられる”と思って祈らないと、思いがけず試練に遭い、大変な痛手になる。でも、祈れば何とか守られ、試練を乗り越える。主の祈りを被害者にするか、大切なパートナーにするか、それは私たち次第だ。