マタイ9:35-38

“収穫の働き手を送ってください”  内田耕治師

 

イエス様はすべての町や村を巡って福音を伝え、あらゆる病気や患いを癒し、人々が羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てて倒れている現実をつぶさに見て深くあわれんだ。“深くあわれむ”とは原典では“内臓が引き裂かれる”ような嘆きである。またそれはただ人々の弱り果てて倒れる姿を嘆くだけではない。羊飼いである主を失い永遠の滅びに向かう人々の現実を見て嘆き、何とかしなくてはと思ったのである。

けれども、イエス様はそういう現実を見てただ嘆くだけでなく「収穫は多い」と霊的収穫の機会として積極的に捉えた。羊飼いである主を失っている人々にこそ自分は必要だと考えられたからである。そして私達もイエス様を信じるがゆえに多くの人々に必要とされている。だから今の難しい現実を消極的にではなくイエス様のように積極的に宣教の機会として取り組んでいきたい。

次にそのように取り組んでいくと、あることが分かる。それは宣教のための働き手が少ないことだ。そのことはイエス様の時代から続いている。それはイエス様が1人では何もできないから弟子を集めて育てたことが証拠だ。今も宣教のことを考えれば考えるほど働き手が足りないことが分かってくる。教会のない地域、無牧の教会、未伝の地の存在、大衆伝道者が少ないこと、クリスチャンの作家が少ないことはその例である。

牧師や宣教師が入れないビジネスマン、教員、医者などの世界では、その世界の働き手が必要だが足りていない。また深い関わりのある人しか関われない人達がいる。そんな人達の存在を思う時、やはり働き手が足りないと気づく。そんなときイエス様は祈りなさいと言う。牧師や宣教師が作るネットワークには限りがあるから、その地域に住み、生活の基盤があり、人間関係をたくさん持つ信徒の方々が働き手として活発に動くことで福音は前進する。だから牧師や宣教師という役職のない働き手がたくさん起こされるよう祈ってほしい。

そのように祈ると、あることに気づく、自分もそういう働き手の1人であることを。私達は自分を小さな者と思っていても主は私達1人1人をみわざのために用いようとしている。イザヤが主の召しに従ったことを参考にすると良い。イザヤ6章で聖なる万軍の主が現れてイザヤに語りかけ、彼が汚れた自分の姿を認めると、主は罪の赦しを与え、さらに「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」と語りかけた。それを聞いたイザヤは「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えた。そこからイザヤは預言者として本格的に働きを始めた。

同じように私達が収穫のために働き手を送って下さるよう祈るなら、そのうちに主は「だれが遣わそう、だれが行くだろう」と語りかける。そんなとき私達が「ここに私がおります」と答えることを主は首を長くして待っておられる。そういうわけで、ほとんどの人々が羊飼いのいない羊のような状態にある現実を見て嘆き、そして嘆くだけでなく、それを積極的に宣教の機会として捉え、自分を含めてそのための働き手を送っていただくように収穫の主に祈っていきましょう。